梅屋庄吉のwiki風プロフィールとは!孫文との関係や死因は?

 
梅屋庄吉 wiki風 プロフィール とは!孫文 関係 死因

現在の中国になる前の清国で起こった共和革命、辛亥革命(しんがいかくめい)に深く関与していた梅屋庄吉さんについて、まとめてみました。

 

辛亥革命に関書していた孫文氏との関係や、梅屋庄吉さんの死因について調査してみました。

 

梅屋庄吉のwiki風プロフィール

 

梅屋庄吉さんのプロフィールになります。

 

梅屋庄吉のプロフィール

名前   梅屋 庄吉(うめや しょうきち)

名    梅屋 正人(うめや まさと)

生年月日 1869年1月8日【旧暦:明治元(1868)年11月26日】

出身地  長崎県

 

梅谷庄吉さんが生まれた長崎と言う所は歴史的に中国との結びつきが非常に強い街です。

 

歴史をさかのぼること鎖国時代にいたっては、西洋への窓口であったため、世界に通じていました。

 

そのため、長崎での生活は世界の最先端の知識や技術などを学ぶことが出来たようです。

 

梅谷庄吉さんは本田松五郎さんとノイさん夫妻の子供でした。

 

やがて米屋や貿易商を営む本田家とは遠い親戚にあたる梅屋家(土佐藩経営の土佐商会の家主)の梅屋吉五郎さんとノブさん夫妻の養子になります。

 

養子になった理由は、梅屋家に後継ぎがいなかったからですね。

 

当時は、現在の長崎市浜町2丁目に、土佐商会の長崎出張所がありました。

 

1866年には土佐商会に「岩崎弥太郎」が赴任し、翌年に海援隊の活動を支援したことが歴史に記されています。

 

ところが梅屋家は一時、米穀相場に失敗し中国へ退転、事業の立て直しを図ることになったようですね。

 

やがて梅谷庄吉さんは中国で写真術を学び写真館を経営し力を蓄え、香港で貿易商としての地位を築き上げることになります。

 

1895年には、梅谷庄吉さんに運命の出会いがありました。

 

中国革命を企図した孫文氏との出会いです。

 

2人が香港で出会ったきっかけは、2人の共通の知人、英国人の医師である「ジェームス・カントリー博士」がいたからです。

 

もしも2人のどちらかが、ジェームス・カントリー博士に出会えていなければ、2人が出会うことが無かったかもしれませんね。

 

1928年ごろ、梅谷庄吉さんが27歳、孫文氏が29歳の時のことです。

 

そして二人はお互いの情熱を語り、信頼し友情を誓い合います。

 

その友情は生涯たち切れること無く、続いていきます、とても素敵ですね。

 

梅谷庄吉さんは孫文氏に多額の資金を援助するのですが、これは孫文氏の成就に寄与しています。

 

1911年から1912年にかけて清で起こった共和革命、辛亥革命(しんがいかくめい)がそれにあたります。

 

 

梅谷庄吉さんは、孫文氏の革命にかける情熱に心をうたれ「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」という盟約を結んだそうです。

 

辛亥革命とは、孫文氏の影響を受けた革命軍が清国を制圧していき、中華民国を誕生させる革命になります。

 

革命軍の勢いが余りにも強力なため、清国は革命軍の制圧に失敗し、統一していた省が次々と独立してしまします。

 

そして1911年12月29日、梅谷庄吉さんと親密な孫文氏が中華民国大総統に選出され、翌年の1912年2月12日には清国が滅亡、アジア初の共和国国家中華民国が誕生します。

 

梅谷庄吉さんはというと、1905年には日本に帰国し、孫文氏への資金を送金しています。

 

資金の額は、2010年時点の貨幣価値で「1兆円」に及びます。

 

日本に帰国した梅谷庄吉さんは、日活の前身であるM・パテー商会を設立、映画事業に取り組み、多額の収益を上げていきます。

 

そこで得た収益を孫文氏の革命の資金に充てていたようです。

 

その後1913年に孫文氏が袁世凱に敗北し日本に亡命してきた後も、梅谷庄吉さんは孫文氏と親密な交流していきます。

 

友情ですね。

 

その後1925年のある日、孫文氏はこの世を去ってしまいます。

 

しかし孫文氏と共に生きた、梅谷庄吉さんは孫文氏の銅像4体を制作。

 

銅像は中国に寄贈し、現在でも像が建立された広州、黄埔、南京、マカオでは大切にされているようですね。

 

建立された銅像は「文化大革命期」に撤去されることになったのですが、周恩来氏の暖かい尽力で撤去されず、守られることになります。

 

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梅屋庄吉の死因は?

 

梅谷庄吉さんは、大日本帝国の政策にも関与されています。

 

戦争により日中関係は悪化していくことになるのですが、その改善のため梅谷庄吉さんは行動しようとします。

 

ところが日本と中国の将来を心配した梅谷庄吉さんは、改善の談判に赴こうとした途上に倒れ、65歳で急死されます。

 

急死の理由などは当時の医学では判明しなかったのでしょうか。

 

おそらく急死されたということは、心筋梗塞か脳梗塞の可能性が高いですね。

 

そして孫文氏と梅谷庄吉さんの交友を記した日記や書簡については、遺族が戦後も日中関係に配慮して1972年の日中国交正常化まで公開されることはありませんでした。

 

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まとめ

 

梅屋庄吉さんの生涯と孫文氏との関係や死因について、お伝えしてみました。

 

調査していく中で梅屋庄吉さんと孫文氏が出会わなかったら、今の日本や中国は無かったのかもしれませんね。

 

ふたりが出会ったことで、日本も中国も今なお生き続けているのかもしれません。

 

歴史の中の小さな出来事かもしれません。

 

梅屋庄吉さんと孫文氏の出会いを調査したことで、日本と中国の関係を見直す重要な出来事に出会えました。

 

一人一人が意識を高めていけば、中国との関係にとどまらず世界の人と心から繋がれる日が来ますね。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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